巨匠ユベール・ド・ジバンシィの軌跡

 カジュアルシックを生み出したユベール・ド・ジバンシィ(Hubert de Givenchy)。伝説的なクチュリエが、2018年3月10日、91歳で死去した。ラグジュアリープレタポルテ(既製服)のパイオニアともいえる存在だったジバンシィは、ファッションの歴史に燦然とその名を刻んでいる。

Givenchy

 1927年にフランス・ボーヴェに生まれたユベール・ド・ジバンシィは、18歳でジャック・ファット(Jacques Fath)のメゾンで働き始めた。その後はロベール・ピゲ(Robert Piguet)、ルシアン・ルロン(Lucien Lelong)、エルザ・スキャパレリ(Elsa Schiaparelli)といったクチュリエのもとで経験を積む。そして25歳になった彼は自分のメゾン「ジバンシィ」を立ち上げ、1952年、パリのアルフレッド・ド・ヴィニー通り8番地にアトリエを構えた。「私の生涯で一番素晴らしい瞬間だった」と後に本人が語っている。
 
 同年に発表した初のコレクションは大きな話題を呼んだ。ベッティーナ・グラツィアーニ(Bettina Graziani)をモデルに起用し、当時としては非常に斬新だった「セパレート」の洋服を披露した。スカートとトップ、上下それぞれを別のアイテムと組み合わせて着ることができるもので、袖にラッフルがついた白いリノン(薄い麻の織物)のブラウス「ベッティーナ(Bettina)」をギャバジンのスカートに組み合わせたルックはよく知られている。オートクチュールよりシンプルで、快適かつ価格も手が出しやすい衣服を、シャツ地やオーガンジー、コットンポプリンといった比較的安価な素材で作り出した。
 
 ジバンシィがこの日発表したのは、正に「ファッションの民主化」だった。創造性とクラシシズムを両立させ、カジュアルシックなスタイルを打ち出した彼はこの翌年、二人の重要な人物と出会うことになる。一人は彼にデザイナーとして影響を与えたクリストバル・バレンシアガ(Cristóbal Balenciaga)、そしてもう一人は、彼のミューズ、そしてよき友人にもなるオードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)だ。
 

師匠、バレンシアガ
 
 「僕にとっての一番はバレンシアガ氏だ。彼の洋服は完璧なんだ」。昨年6月、フランス・カレーのレース美術館で行われた展覧会のオープニングでこう話していたジバンシィ。
 バレンシアガへの憧憬は、少年時代にまで遡る。「10歳か11歳の時、家族には内緒でボーヴェから電車に乗ったんだ。パリに行って、バレンシアガに会うためにね。ジョルジュサンク通りに着いて、エレベーターに運ばれた先には、素晴らしい世界が広がっていたよ。たくさんのモデルに、生地の匂い。彼の会うことは叶わなかったけれど、それで良かったんじゃないかな。持参したスケッチはあまり上手いものじゃなかったから」。
 
 ジバンシィがバレンシアガとの対面を果たしたのはニューヨークでのことだった。異国の地で偶然顔を合わせた二人の道は、その後分かたれることはなかった。パリでも、ジバンシィは自身のアトリエをバレンシアガの向かいに移し、師の教えを聞き続けた。
 
 シンプルなラインに、生地へのこだわり、そしてしなやかな動きがバレンシアガの副の特徴だ。「ファッションの建築家」とも綽名された彼の影響は、ジバンシィのコレクション全てに見てとることができる。そしてそこに、彼ならではの豊かな想像力を加えてみせた。
 
 師が亡くなって45年経った後も、ジバンシィは洋服とは何たるか、というバレンシアガの教えを覚えていた。「洋服というのは欠かせないものだが、それは同時にフォルムであり、素材である。女性の体に沿って動く必要があり、素材に逆らうような不自然さがあってはならない」。
 
 二人の親交はバレンシアガが亡くなる1972年まで、20年に渡って続いた。その間、メゾン「ジバンシィ」にも様々な変化があり、1954年には高級既製服ライン「ジバンシィ・ユニベルシテ(Givenchy Université )」をスタートしたほか、その3年後には3種のフレグランスを発売、さらにテーブルウェアやシューズ、アクセサリー、ネクタイなどのライセンス事業も拡大している。顧客の中には、ジャクリーン・ケネディ(Jacqueline Kennedy)やウィンザー公爵夫人、デイジー・フェローズ(Daisy Fellowes)といった女性が名を連ねていた。
 
 しかし、中でも一番の顧客はやはりオードリー・ヘップバーンだ。「チャーミングな方法で出会った」とジバンシィは振り返る。共通の友人から「マドモワゼル・ヘップバーン」を紹介したいと伝えられ、キャサリン・ヘップバーンのことだと思い込んでいたジバンシィ。しかし現れたのは、ジーンズとボーダーシャツに身を包んだ若かりしオードリーだった。彼女は映画『サブリナ』の衣装をデザインしてほしいと依頼した。

 
ジバンシィとヘップバーン、運命共同体の二人
 
 その日から、二人の仕事は切っても切れないものとなった。ジバンシィが出演作に衣装を提供するたび、オードリーは女優として名を挙げていく。しかし何より、二人の間には真摯な友情があった。
 
 1957年のパリの恋人』のほか、1961年には『ティファニーで朝食を』でかの有名な黒いドレスをデザインしたジバンシィ。他にも、1963年の『シャレード』、1966年の『おしゃれ泥棒』も彼が衣装を手掛けている。
 
 メゾン初のフレグランスの "顔"も務めたオードリー・ヘップバーンだが、化粧品の業界で一人の人間がブランドイメージを体現するというコンセプトは初めてのものだった。ヘップバーンは1993年に64歳で亡くなり、ジバンシィはその死を大変嘆いた。「彼女のことをいつも考えるし、彼女の写真を見ると微笑まずにはいられない」と悼んでいる。

 
「時代は変わった」
 
 「僕は幸せ者だ。子供の頃に憧れていた仕事に就いたのだから」と話したジバンシィは、1995年に引退する。LVMHグループによるメゾン買収から7年後のことだ。ファッション業界から距離を置き、オークションハウス「クリスティーズ(Christie's)」のフランス支部でトップを務めた。マドリードやハーグ、カレーで自身の展覧会も開催しているが、特に昨年のカレーでは、「いつも止める止めるというけれど、人生には常に何か面白いことがある」と次なるプロジェクトへの意欲も示していた。「よくデッサンをするし、続けているよ。悪くないだろう」とスケッチへの情熱も明かしている。
 
 今日のファッション業界へも言及しているが、やはり色々と思うところはあるようだ。「時代は変わった。マダム・グレ(Madame Grès)やヴィオネ(Vionnet)、ディオール(Dior)、バレンシアガのいた時代が、クチュールの黄金期だった。生地はどれも高級なもので、洋服を着ていく場所もあった。サンローラン(Saint Laurent)が辞めた時、そんな時代は終わったんだ」とジバンシィ。「何か新しいものと違った視点をもたらしてくれるような、そんな若者が現れてくれることを期待しているよ。一番良い方法で学んでいきたいという若い人たちにはこう言いたい。アトリエに行きなさいとね。アトリエには人生と仲間がある。最良の学校さ」。
 
 創業者が去ったメゾン「ジバンシィ」には、その後ジョン・ガリアーノ(John Galliano)、アレキサンダー・マックイーン(Alexander McQueen)、ジュリアン・マクドナルド(Julien MacDonald)、リカルド・ティッシ(Ricardo Tisci)が歴代アーティスティックディレクターを務めてきた。今日ではクレア・ワイト・ケラー(Clare Waight Keller)がデザインを手掛けている。

 

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