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掲載日
2019/02/19
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追悼・モードの"皇帝"カール・ラガーフェルド

掲載日
2019/02/19

 モードの"皇帝"と称され、「シャネル(Chanel)」のクリエイティブディレクターを30年以上にわたって務めたカール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)が、2月19日の朝、パリの病院で死去した。


 存命するデザイナーとしては間違いなく頂点に君臨していたラガーフェルドは、80歳を過ぎても年に10を超えるコレクションを制作するなど精力的な活動ぶりだった。「シャネル」と「フェンディ(Fendi)」はもちろん、自身のブランド「カール・ラガーフェルド」も手掛けた。また、ファッションデザインだけでなく、デッサンやイラスト、写真にも並外れた才能を発揮し、多くの個展を開催し本も出版している。1983年に就任した「シャネル」のデザイナーは、彼のキャリアを象徴する役職だろう。創業者ココ・シャネル(Coco Chanel)のユニークなスタイルで知られるメゾンを、リュクスでシックなゆるぎないものとして確立した。
 
 ラガーフェルドの美的センスには驚くべきものがあった。新表現主義的なシルエットとグラフィックなスタイルが持ち味で、「フェンディ」ではレイヤードやジグザグのフォルムで遊びイマジネーションに富んだコレクションを披露。伝統的なファーブランドに、毛皮のニットやミンクのカットアウトといった革新的なテクニックを持ち込んだ。一方の「シャネル」では、四つポケットのジャケットやツインセット、マニッシュなツイードにリトルブラックドレス、キルティングバッグ、バイカラーシューズやパールアクセサリーなど、ブランドのDNAとシグネチャーを現代風にアップデートしてみせた。

 ファッションフォトグラファーとしても有名だった彼の写真作品は、やや固いと批判する声もあるが、それでも優れたポート―レートを撮る技術があったことは事実だ。写真集「The Little Black Jacket」では、白黒のポートレートが100以上収録されている。
 
 料理本から格言、アニメまで、様々な業界がカール・ラガーフェルドにインスパイアされ、愛猫のシュペット(Choupette)もマスコットとして注目を浴びる。他にも様々なフィクションでカリカチュアされる存在だった。
 
 粉をはたいた白髪、サングラス、ハイカラーのシャツにスリムなジャケットとタイトなジーンズ、足元にはマサロ(Massaro)のブーツを合わせたルックに身を包み、いつも大量のジュエリーを合わせていた。ラガーフェルドは「ベルペロン(Belperron)」のブローチのコレクターとしても知られていて、それを「ヒルディッチ&キー(Hilditch & Key)」のネクタイに就けるのがお約束だ。大変な愛書家であったものの、不思議なことに自伝を記すことはついに一度もなかった。本人は、「誰かの過去について書くなんて、未来を失い始めた証拠さ」と皮肉っていた。
 
 自分の出自を公表したがらないラガーフェルドだが、1933年10月にカール・オットー・ラガーフェルド(Karl Otto Lagerfeld)としてドイツのハンブルクに生を受けたことは事実として認めている。父のクリスチャン・ルートヴィッヒ・オット・ラガーフェルド(Christian Ludwig Otto Lagerfeld)は世界を旅するビジネスマンで、サンフランシスコの自信やロシアの革命を経験した人物だ。その後ドイツのコンデンスミルク会社のマネージングディレクターとしてハンブルクに移り住んだ。母のエリザベート・バールマン(Elisabeth Bahlmann)はベルリン出身で下着の販売員だった。父オットーは最初の妻との間に娘テアをもうけたが、彼女はカールの異母きょうだいにあたる。さらに母を同じくするマルタ・クリスチアーネという姉妹も存在する。
 
 ラガーフェルドという姓はスウェーデン由来だと主張しており、祖先はスウェーデンの貴族であったという逸話なども語っていた。幼少期のカールはハンブルク高級住宅地ブランケネーゼで過ごしたが、その後ラガーフェルド家は40キロほど北東の小さな町ダート・ダルムシュタッドに移り住む。しかし第二次世界大戦時に難民や戦争犯罪者、ホームレスといった人々がハンブルクから空襲を逃れてやってきたため、街には人が溢れた。1945年5月にはイギリス軍が一家の屋敷を占領し、一年間牛舎に押し込まれて寝ていたという。
 
 早熟だったカール少年は、スケッチと読書、それに雑誌の切り抜きなどが好きだった。パリに移ったのは十代半ばのことで、モンテーニュ高校に通って以降は長い間左岸の住人として過ごすことになる。成功して財を成してからはPozzo di Borgo一族のルネッサンス式邸宅に住み、その後はルーブル美術館が一望できるセーヌ川沿いの現代的なアパルトマンへと居を構えた。内装は、カール曰く「未熟児のための手術室みたいなもの」らしい。
 
 まだ移転前のサン・ロッシュ通りにあったサンディカ・パリクチュール校で学んだカールの学友には、3つ年下のイヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)がいた。2人は1954年に羊毛事務局(現ウールマーク)のデザインコンテストで優勝し一躍注目を浴びる。イヴはドレスで、カールはコートで受賞した。その後44年にわたってライバルとなった両者だが、当時カールのパートナーだったジャック・ドゥ・バシェール(Jacques de Bascher)がサンローランと関係を持ったことが影を落とした。
 
 カール・ラガーフェルドとイヴ・サンローランに関しては、今でも様々に意見が分かれるところだ。フランスでは、ラガーフェルドの才能を認めながらも、サンローランというモーツァルトへの嫉妬にかられたサリエリだと見る向きが多い。モーツァルトが貧困の末亡くなったのとは対照的にサンローランは巨万の富を手に入れたものの、2008年に71歳で悲哀に満ちた隠遁生活に終止符を打った。しかし、彼の死に解放されたかのように、ラガーフェルドは精力的に手を広げていく。「シャネル」と「フェンディ」のコレクションやショーが一番輝いていたのもこの時代ではないだろうか。ランウェイを一大スペクタクルに変え、万里の長城からリード・ディ・ヴェネツィア、さらに"開国"後のキューバでもいち早くショーを行った。会場のセットも大掛かりなもので、パリのグランパレ内にヴェルサイユ宮殿を再現したり、シャネルジャケットを50メートルもの高さのコンクリートで作ったりと目を見張るものだった。
 
 ココ・シャネルの生涯を描いた一連のショートフィルムを制作したこともある。事実とフィクション、さらに伝説となった逸話などを織り交ぜたエキセントリックな作品に仕上がっている。彼が選ぶのは、キーラ・ナイトリー、ダイアン・クルーガー、ヴァネッサ・パラディ、クリステン・スチュワート、アナ・ムグラリス、アストリッド・ベルジェ=フリスベ、ルーニー・マーラ、ジュリアン・ムーア、カーラ・デルヴィーニュといった豪華なミューズたち。「シャネル」のアトリエもカールのもとで偉大なファッションの研究所となった。2015年のオスカーでジュリアン・ムーアが纏ったドレスは、ハンドペイントのスパンコール8万個を使い、27人のお針子が987時間かけて縫い上げたものだ。ニコール・キッドマンが着ていたピンクのシフォンドレスも忘れ難い。
 
 カール・ラガーフェルドは50年代にピエール・バルマン(Pierre Balmain)のアシスタントとしてキャリアをスタートさせた。大変な職場だったようだが、そこでテクニックやアトリエとの仕事の仕方を学んだ。雀の涙ほどの給料しか支払われなくとも、父の援助のお陰でベンツを乗り回すような裕福な生活を維持していた。
 
 初めて大きな仕事に就いたのは1964年のことだ。「クロエ(Chloé)」の創業者ギャビー・アギョン(Gaby Aghion)が彼を起用し、始めはシーズン毎に2ルックを制作するのみだったが、結局その十年後にはメゾンを世界でも上位のクリエイターブランドに成長させた。彼が考案した"ヌード"ドレスはカルチェラタンの女学生にインスピレーションを得たもので、ヘルムート・ニュートン(Helmut Newton)によるアイコニックなキャンペーンも残っている。
 
 生き方やキャラクターが確立されている一方で、本人も「雇われの殺し屋みたいなもの」と表現する通り、自身のブランド設立に関してはあまり頓着していなかった。実際、「カール・ラガーフェルド」ブランドは数十年の間に5度も売買されることとなり、長いこと赤字を計上していた。黒字に転換したのは21世紀に入ってからだ。カールを象った人形やキャラクターグッズのようなアイテムは、ファッショニスタたちを震撼させたが、彼自身もこう述べている。「若い頃は風刺画家(カリカチュリスト)になりたかったが、最後には自分がカリカチュアになったようだ」。
 
 デジタルの世界にもすぐ馴染んだラガーフェルドは、それでもどこか18世紀風の佇まいがある人物だった。彼が何より好んだ素材はシルクでもシフォンでもなく、紙だ。現代ではデザイン画を描けないデザイナーも多くいるなか、ラガーフェルドはイラストレーターとしての才能にも秀でていた。2014年にドイツのボンで初の本格的な回顧展が開催されたが、キュレーターを務めたアマンダ・ハーレック(Amanda Harlech)は4万枚ものスケッチの中から展示作品を選んだという。
 
 「電流が走るみたいにデザインするんだ。それが見えるだけなんだ。私のスケッチはすでに完成しているように見えるけれど、別にドレーピングをしたりヴェルディを聞いたりしているわけじゃない!私はデザイナーなんだよ」とカールはフィガロ紙に語ったこともある。
 
 映画や舞台のコスチュームもデザインした。映画『バベットの晩餐会』や、ミラノのスカラ座、ウィーンのブルク劇場、ザルツブルク音楽祭などオペラの衣装、さらに、ロックやポップの世界ではマドンナ、カイリー・ミノーグの衣装を手掛けたこともある。
 
 徹底してワーカホリックだった彼は、サントロペのバカンスに出かけても海辺でスケッチをしていた。フランス文化、デザイン、インテリアなど非常に広大な知識を持ち、芸術に関する造詣や4ヵ国語を流ちょうに話す能力はいつもエディターたちを驚かせた。いつも様々な言語で切れ味の鋭い言葉が飛び出す。「ファッションは道徳的でもなければ不道徳なものでもない。ただ、モラルを向上させることはできる」。
 
 晩年の一番の友人は、愛猫のシュペットだった。ミス・シュペッはカプセルコレクションにも登場し、猫耳のついたニットキャップやペットフードをモチーフにしたアイテムが発売された。最近のコレクションの多くはiPadでスケッチされたものだが、やはり一番のお気に入りはペンと紙だ。ただし、カールの流儀では、ペンの代わりに「シュウウエムラ」のアイライナーを使う。
 
 ファッション史上最も"稼ぐ"デザイナーと言われたカールの年収は、3000万ユーロを超えると見られている。しかし、本とドイツのポスター、そしてわずかな不動産の他には、特に何かを収集するということもなかった。非常に気前が良く、ことあるごとに贈り物とグリーティングメッセージを友人やエディターに送っていた。
 
 アルコールも煙草もドラッグも嗜まないライフスタイルが長寿の秘訣だったのだろうか。ラガーフェルドの家族や友人の多くは何年も前に亡くなっている。血のつながった姉妹は2014年にこの世を去ったが、ファッションの世界で築いた"家族"は大きく広がっている。例えばモデルのブラッド・クロイナ(Brad Kroenig)の息子ハドソン(Hudson)君は、カールお気に入りの"孫"だ。もちろん、子供に対する愛情を表現する時にもカールはアイロニーを忘れない。「子供は好きだよ。自分の子供でない限りはね」。

 

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